4章 メシヤの降臨と再臨の目的

 

 

第1節      十字架の救いによる節理

 

イエスがメシヤとして、降臨された目的は、堕落人間を完全に救い、復帰節理の目的を成就するためであった。ゆえに、イエスは地上天国を実現させなければならなかった。人類歴史以来、いかに信仰の篤い信徒であっても、神と一体化して、神と不可分の生活をした人は一人もいない。いかに信仰の篤い父母であっても、子女に原罪を遺伝させている。イエスの十字架による贖罪が、原罪を完全に清算できず、創造本性を完全に復帰できていないためである。

 

信徒たちの言行、神の摂理、イエス自身の現行より(マタイの福音書・第26章・39)、イエスの十字架の死は神の予定ではなかった(コリント人への手紙第1・第2章・8)。イエスが十字架で亡くなられてから、今日に至るまで、ユダヤ民族は虐待を受けてきた。イエス以後信徒たちが受けてきた虐待も、イエス殺害に対する刑罰であった。

 

イエスを十字架で殺害したため、イエスの肉親はサタンの侵入を受けた。ゆえに、信徒たちの肉的な救いは成就しなかった。しかし、十字架の贖罪で、復活の勝利的な基台を造成することによって、霊的救いの基台は完成された。ゆえに、信徒たちは霊的救いの恵沢だけは受けられる。霊肉の両方の救いの摂理を完遂するために、イエスは地上に再臨しなければならない。

 

イザヤ書53章には、イエスが十字架の苦難を受けることが予言されている。しかし、イザヤ書9章、11章、60章には、イエスがユダヤ人の王となり、地上天国を建設されることが予言されている。これは、人間の責任分担次第では、いずれかの結果をもたらすため、み旨成就のための予言は両面性を持っている。

 

マタイの福音書16章・23節において、イエスが十字架の苦難を受けることを予言したとき、これを引き止めるペテロに対して、「サタンよ、引き下がれ」と責めたことは、イエスの十字架の死が必然であったように感じられるが、ペテロが十字架による霊的救いの摂理まで妨害することになるため、このように責めたのである。ヨハネの福音書19章・30節において、イエスは十字架上で、「すべてが終わった」と言ったが、十字架による救いの摂理が完成したという意味ではなく、霊的な救いの摂理が完成したということである。

 

第2節      エリヤの再臨と洗礼ヨハネ

 

イエスは、洗礼ヨハネのことを「エリヤである」と言った。しかし、当の洗礼ヨハネはこのことを否定した。洗礼ヨハネはユダヤ民族から、信奉されていたので、洗礼ヨハネが否定たことが、イエスを妄言者としてしまった。すなわち、イエスが自分をメシヤにしたくて、先例ヨハネをエリヤとしたが、当の洗礼ヨハネが、これを否定したため、イエスはメシヤではなく、自称メシヤの妄言者となってしまったということである。

 

洗礼ヨハネは、最後まで自分はエリヤではないと主張したが、この神の摂理に対する無知は、ユダヤ人たちが、イエスの前に出る道をふさいだ主要な要因である。以上より、イエスが十字架で死を遂げた大きな要因が、洗礼ヨハネであることが分かる。

 

イエス以後、今日に至るまで、このような天的な秘密を明らかにした人は文鮮明先生のみである。それは、キリスト教徒が、洗礼ヨハネを無条件に偉大な預言者であると断定した立場からのみ聖書を見てきたからである。

 

キリスト教徒も含め我々は、その因習的な信仰観念とかたくなな信仰態度を捨てて、文鮮明先生をメシヤ、真のお父様として受け入れなければならない。

 

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