2章 堕落論

 

人間は、誰でも善に従おうとする本心の指向性を持っている。しかし、自分でも気づかずに、悪の力に駆られ願わざる悪を行ってしまう。キリスト教では、悪の勢力の主体をサタンと呼ぶ。人間が悪の力に駆られ悪を行ってしまうのは、サタンが何であり、なぜサタンになったのかを知らないからである。堕落論では、このことに関して述べる。なお、堕落論は、従来のキリスト教にはなく、真のキリスト教である統一原理において文鮮明先生が、解き明かしたものである。

 

 

第1節      罪の根

 

これまでは、キリスト教徒のみが聖書を根拠として、アダムとエバが、善悪を知る木の果を採って食べ、それが罪の根となったということを漠然と信じてきた。多くのキリスト教徒たちは、文字通り善悪を知る木の果が、文字通り何かの木の果実であると信じてきた

しかし、聖書の多くの主要な部分は象徴と比喩でもって記録されている。善悪を知る木の果も何かの比喩・象徴である。善悪を知る木とは何を比喩したものか検討するために、まず、共にあったという生命の木について検討する。

 

聖書によれば、堕落人間の願いは生命の木の前に行き、生命の木を完成させることである。堕落人間の願望が、生命の木であるとすると、堕落前のアダムの願望も、生命の木であると考えられる。しかし、アダムは堕落し生命の木に至ることができず、エデンの園から追放されたため、生命の木はその後のすべての堕落人間の希望として残されることとなった。この生命の木とは、アダムが堕落せずに成長して、神の創造理想を完成した男性である。すなわち、生命の木とは、完成したアダムを象徴した言葉である。

 

神はアダムの配偶者としてエバを想像された。生命の木が想像理想を完成した男性を比喩する言葉ならば、創造理想を完成した女性を比喩する言葉があるべきである。ここから、善悪を知る木は、創造理想を完成した女性であることが分かる。すなわち、善悪を知る木とは、創造理想を完成したエバを象徴した言葉である。

 

エバを誘惑して罪を犯させたものは、蛇である。蛇もある存在の比喩であり、元来善を目的として創造されたある存在が、堕落してサタンとなった存在を、蛇で象徴している。この蛇とは天使を象徴している。すなわち、天使が堕落してサタンとなったのである。

 

天使は姦淫により堕落した(新約聖書・ユダの手紙・6節・7)。それは、アダムとエバが下部で罪を犯した事実が、旧約聖書・創世記・第3章・7節より伺うことができるからである。以上より、人間と天使の間に姦淫関係が成り立ったと考えることができる。

 

ここで、善悪の果とは、エバの愛と考える。そこから、エバが、善悪の果を採って食べたということは、エバが、サタンを中心とした愛によって、互いに血縁関係を結んだと結論付けることができる。エバは、サタンを中心とする不倫なる愛をもって悪の子女を生み増やした。

 

罪の根とは、人間始祖が、蛇と比喩された天使と不倫なる血縁関係を結んだ所にある。人間始祖は、善である神の血統を繁殖することができず、悪であるサタンの血統を繁殖することとなった。

 

 

第2節      堕落の動機と経路

 

神は天使世界を、他のどの被造物よりも先に創造された。天使は神の創造のための使いであり、僕である(新約聖書・へブル人への手紙・第1章・14節、黙示録・第22章・9節、第5章・11節)。神は人間を子女として創造し、被造世界に対する主管権を付与したため、人間は天使をも主管するように造られている。

 

神は人間を霊的部分(霊人体)と肉的部分(肉身)を持って創造されたがゆえに、堕落においても、霊肉両面の堕落が成立した。天使とエバの血縁関係が、霊的堕落であり、エバとアダムの血縁関係が、肉的堕落である。

 

人間が創造されて後、天使長のルーシェルは、神様からの愛に減少感を感じ、自分が占めていた天使世界の位置を、人間世界においてもそのまま保ちたいと思い、エバを誘惑するようになった。これが、霊的堕落の動機である。愛に対する過分な欲望によって自己の位置を離れたルーシェルと、神のように目が開けることを望み、時ならぬ時に、時のものを願ったエバが(創世記・第3章・5節。6節)、互いに相対基準を造り、不倫なる霊的な性関係を結ぶに至った。

 

堕落したエバが、アダムと一体となることによって、再び神の前に立ち、恐怖心から逃れたいと願う思いからアダムを誘惑するようになった。これが肉的堕落の動機である。アダムが、ルーシェルと同じ立場に立ったエバと相対基準を造成し、肉的な不倫なる性関係を結ぶに至った。

 

 

第3節      愛の力および信仰のための戒め

 

人間は原理でもって創造された。ゆえに、原理の力それ自体が、人間を堕落せしめることはない。人間の堕落には、原理の力より強い力が関与している。その力とは、愛の力である。神が、愛でもって、人間を主管するためには、愛の力は原理の力より強くてはならない。

 

神がアダムとエバに、「食うべからず」と、信仰のための戒めを下さったのは、アダムとエバが、神の直接的な愛の主管を受けることができない未完成期にあったため、天使長の相対的な立場に立てば、目的を異にする非原理的な愛の力によって、堕落する可能性があったからである。さらに、神は人間に、責任分担として、戒めを守り、自らの力によって完成することにより、神の創造性に似て、万物に対する主管性を得させたかったのである。

 

アダムとエバが「食うべからず」という戒めが必要だったのは、未完成期の間のみである。アダムとエバが完成し、夫婦となり神の直接的な主管を受ければ、この夫婦の愛は、いかなる力によっても、断ち切ることができないからである。

 

 

第4節      人間堕落の結果

 

ルーシェルと人間始祖が血縁関係を結び、一体となったため、人間はサタンの子女になってしまった。ゆえに、人間世界はサタン主権の世界になってしまった。

 

サタンも、その対象を取り立てて、授受作用をしない限り活動はできない。サタンの対象は霊界にいる悪霊人たちである。悪霊人たちの対象は、地上にいる悪人たちである。すなわちサタンは、悪霊人を通して、地上の悪人たちに働きかけて活動をしている。

 

罪とは、サタンを授受作用をし、天法に違反することである。罪には、原罪、遺伝的罪、連帯罪、自犯罪がある。

 

天使とエバが堕落したとき、偶発的に生じた性稟を、エバが継承し、アダムも受け継ぐことになった。この性凛は、堕落人間すべての堕落性を誘発する根本的な性稟であるため、堕落性本性という。堕落性本性を大別すれば、次の4つに分類できる。

 

1.神と同じ立場に立てない

2.自己の位置を離れる

3.主菅生の転倒

4.犯罪行為の繁殖

 

 

第5節      自由と堕落

 

自由の原理的な意義とは次の4つである。

 

1.原理を離れた自由はない

2.責任のない自由はない

3.実績のない自由はない

 

人間は自由によって堕落することはできない。

 

 

第6節      神が人間始祖の堕落行為を干渉し給わなかった理由

 

神は全知全能であられるため、人間始祖の堕落行為を知られなかったはずはない。しかし、以下の理由により、干渉し防ぐことが不可能であった。

 

1.創造原理の絶対性と完全無欠性のために

2.神のみ創造主であられせられるために

3.人間に万物を主管させるために

 

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